サンタクララの瞳

これは、McKINLEYデビュー前夜、まだその名も無かった頃の話である。

昼間でも夜の匂いが充満している「Bar-J」で、コウヤとマサカズは、「阿部」と名乗る男に声を掛けられた。アメリカ育ちなのか、どことなく癖のある発音。口をついて出る日本語も、どこか西海岸の波の音が混じってる。身長も体格も白人社会の中でも決して引けを取らない様相だ。

「You guys、なんかあぶねぇ音してるよねぇ?」
第一声はそんな挨拶だった。話し方は軽妙で意味不明なのに、瞳の奥には太陽のような輝きと熱気が居座っていた。マサカズには意味が分からなかったが、何故か悪い気はしなかった。ちょうどこの曲が終わったところだ。どうせ客のいないステージ、少し位話に付き合ってやろう、そんなつもりで2人はステージから降りた。

阿部は2人に、自身が音楽プロデューサーであることを打ち明けた。そう聞いてコウヤは思わず笑った。
「…で、なんでまたこんな店に?」
と尋ねると、阿部はさらっと言った。
「そそ、波乗りの帰り。そしたら、この店から故郷の香りがして。…故郷は、埃っぽさと冷えたビールの香り、そんな街だったのさ――」
そう言うと阿部は、遠くを見つめ続けてこう言った。
「サンタクララ…シリコンバレーの中心なんて呼ばれる前、まだ街は埃っぽく、マイクロチップがアメリカを変えるなんて、誰も知りはしなかった。ポケットのメモ帳に未来を走り書きしていた奴らなんて変人扱いされていたもんさ。英語よりも、街に溢れるスペイン語の響きが、あの街のビートを刻んでいた――」

コウヤとマサカズは、阿部の一人語りをよそに、2人でジェンガを始めていた。それを尻目に阿部は続けた。

「…俺は庭に実ったレモンをもぎ取り、雑に切って、砂糖を溶かした水に放り込む。そうして作ったレモネードを通りで売りはじめる。客は近所の大人や通りすがりの労働者。俺はこうして無意識のうちに、生き残るための練習をしていたのさ――」

ジェンガはもう、呼吸ひとつで崩れそうだった。塔は立っているというより、まだ倒れていない、という表現が正しいだろう。2人はその命綱なしの綱渡りを、無言で見守っている。

「…そして、サンタクルーズ。太平洋の潮風が吹きつける海岸だ。昼はサーファーたちが波に挑み、夜はボードウォークのネオンが、人生を持て余した若者たちを吸い寄せた。大波に飲まれるか、ネオンに飲まれるか。どちらもろくな結末じゃなかったが、若者はどちらかを選ぶしかなかったのさ。あの頃の二つの街は、まだ青臭いアメリカの別々の顔を見せ——」

ガシャン!遂にジェンガが崩れた。
マサカズは負けた代償にコウヤに1杯奢り、バーのあちこちに飛び散った木片を拾い集めていた。コウヤは阿部の方に顔を向け、こう言った。
「悪い悪い、…で、おいらに何の用だ?」

翌週にはもう、阿部は2人の専属プロデューサーになっていた。デビュー前の売れないミュージシャンには、契約書も名刺交換も要らなかった。彼の動機は「面白そうだったから」。2人も似たような理由で承諾した。プロデューサーがいようがいまいが、2人の音楽への向き合い方は何も変わらない。いつも通り、ギターと声と、ちょっと多めの煙草と過ごすだけ。

しかし阿部は本気だった。翌日から文字どおり2人の元へ転がり込んできた。安アパートのドアをノックもせずに開け、その荒れた部屋に土足のまま上がると、徐に持参したシュラフをフローリングの上に広げた。阿部はその上に胡座をかいて座るとこう言い出した。

「音楽業界ってのは…キャラ設定が命なんだよねぇ。あー、じゃあコウヤちゃんは無口でミステリアス、マサカズちゃんは、んー、虫とか食うけど実は天才。うん、それで行こう」
「ムリだな」
「無理っす」

そんなやり取りが、毎晩のように繰り返された。阿部は一つひとつ教えてくれた。メディアの裏側、言葉の選び方、距離感の取り方、損得の嗅ぎ分け方。阿部はその一つ一つがデビューへの布石になるんだ、と熱く語った。2人は全部聞いて、全部忘れた。というより、そもそも2人は覚える気がなかった。

「あのさぁ…天然にも限度があるって分かる?」
と苦笑しながら、それでも阿部は毎日そばにいて教えてくれた。夜中にキックボードで焼きそばパンを買いに走ったり、歌舞伎町のど真ん中で松花堂弁当を用意してくれたりするプロデューサーは、世界中探しても阿部だけしかいないだろう。それがどんなにありがたいことかは理解していたが、コウヤとマサカズは、音を鳴らすことしかできなかった。そして、阿部はそんな2人の“できないこと”を全部請け負ってくれた。そんな関係だった。

歪で、居心地のいい三角形。バランスは悪いが、なぜかあの日のジェンガのようには簡単に崩れなかった。それは、未来に見たいものが3人共に一致していたからに他ならない。

風向きが変わるのを、2人は確実に感じた。阿部はもっと早くに気づいていた。だがそれを口にすることはなかった。ただ毎日、ブラックの缶コーヒーを片手にこう言うだけだった。

「…ま、明日も波は来るっしょ」