episode 0;曇天の10年

上京してから、最初の数か月は空腹すら輝きに満ちていた。
街の雑踏、ネオン、ビル風、電車の軋み。そのすべてが、まるでBGMのように彼の夢を後押ししてくれていた。

しかし、夢で腹を満たすことはできない。
変わり映えのしないオーディション。落選の日々。「あと一歩」と言われる度、その“一歩”がどれほど遠いかを思い知った。半年経った頃には、道端でこんな唄を唄うのも、誰かに聞いてほしいからではなく、生きるためになっていた。公園の蛇口、パンの耳、たまにくれる誰かの笑顔。そういうもので、心の形を辛うじて保っていた。

都会の裏切りは容赦なかった。
騙された契約、勝手に使われたこの曲、口約束だけのギャランティ。
「自分の声」が「誰かの金」になり、自分には何も残らない。それでも彼は唄った。誰かに見ていてほしかった。見つけて、愛して、抱きしめて、認めてほしかった。それは、命綱のような願いだった。

だが、その願いはあの男にも見抜かれていた。

「なぁ、コウヤ。自分で食えないなら、人の血を吸うのはどうだ。」

葉巻の煙とバーボンの匂いが混ざった薄汚れたジャズバーにいたのは、“ハマのノスフェラトゥ”と呼ばれる男──デューク。恰幅の良い小柄なシルエット。白いスーツにパナマ帽。声は低く、目だけが異様にギラついていた。
彼は夜の世界を仕切っていた。バー、クラブ、人材斡旋。合法と非合法の狭間で生きる男。

コウヤは、今日を生きるために、彼のもとで「メッセンジャー」として働いた。耳障り良く言えば、人と人を繋ぐ仕事だ。ブッキングもあれば、金の回収もある。時にはギターも持たされて、パーティーで唄わされることもあった。

デュークは、コウヤの左腕に、出で立ちに不釣り合いなほど輝くピンクゴールドの腕時計をゆっくりと巻き付けながら、ゆっくりと優しくこう言った。
「自由でいたいなら…、まずは首輪に慣れることだ。吠えるのは、それからでも、遅くはない」
デュークの言葉は、いつもコウヤの心に棘のように刺さった。正直、嫌いだった。だけど、なぜか離れられなかった。自分を踏みにじる人間より、自分を見抜く人間のほうが、まだマシに思えた。

季節は流れ、夜の横浜をアルマーニのスーツ姿で闊歩するコウヤ。街行く淑女たちも歓楽街の女性たちも振り返る。今やこの街の人間で、コウヤを知らない者はいない。左腕の腕時計もすっかり板についてきた。アスファルトとレザーソールが織りなす靴音は規則的にこの街の沈黙を切り割くが、コウヤの心は常にざわついていた。
届けるべき封筒の中身は、多分、綺麗なものじゃないだろう。でも彼にはもう、選ぶ余地などなかった。「夢が叶わなかった人間に、夢を語る資格なんてない」そんな考えが、心を巣食い始めていた。だからせめて、どこかで「役に立っているフリ」をしていたかった。

だが、本当は──
本当は、唄っていたかった。誰のためでもなく、自分のために音を鳴らしていたかった。ポケットの中のブルースハープ。どんなに服は変わっても、あの頃と同じ場所にしまってあるのに、吹くのが怖かった。響くのは、虚構か、現実か。自分でもわからなくなっていた。

仕事の帰り、港でひとり煙草を吸っていた。
潮風は冷たく、空は曇天。星はない。
だけど、彼の中にあったのは、もっと濃い闇だった。

優柔不断で、煮え切らなくて、虚弱で、希薄で、軽薄で、姑息。
そんな言葉が、浮かんでは消えた。誰かに誇れるものなんて、何一つなかった。

「…おいらは、まだ終わってないだろ…?」
かすれた声が、風に流された。

ポケットの中のブルースハープを握りしめる。このまま終わってたまるか。
あの日の船と列車は、おいらに何を運んできたのか。この街に、おいらは何を刻むのか。

その答えを探すかのように、コウヤは、裏通りにある洞穴バーへと歩き出した。