episode 0;象牙の塔

あの夜、マサカズの手は震えていた。
冬の寒さのせいではなかった。その震えは胸の奥からきていた。
リョウコの目を見ないまま、マサカズは肩越しに別れを差し出した。
「僕…もっとテッペンに行きたいんだ」

リョウコはただ、黙ってうなずいた。
マサカズが選んだのは、愛ではなく夢だった。
例えそれが、泡のように消えてしまうものだとしても──その泡は、甘く輝いていた。

始まりは、新宿の駅前だった。
いつもなら雑踏にかき消されるようなこの曲が、この日は冬の寒さのせいか、遠くまで響いていた。その音がとある女の耳に留まった。純白のコート、整った輪郭、涼やかな瞳、高そうなヒール。彼女は音楽プロダクション、六代グループの社長令嬢、範子だ。
表情を変えず、マサカズの演奏を人混みの輪の外から眺めていた。

演奏が終わると、彼女は近寄ることもなくマサカズに声をかけた。
「あなた…売れたいと思わない?」

マサカズは、いつの間にか彼女の操るスカイラインGTRの助手席に乗せられていた。
青山通りを滑るように走る車内で、範子の言葉にマサカズは確かに夢を見た。大きなステージ、スポットライトを浴びて輝くギター、熱狂の客席。リョウコが住む小さなアパートメントじゃ味わえない広い世界と、ミッドナイトブルーの音楽業界が、すぐ目の前にある気がした。

信号待ち。窓の外を見るとユニークな構造のホール、有名な琥珀色の炭酸飲料の本社ビルを通り過ぎると、テレビを賑わせている新興宗教団体の総本部が見える。範子の横でマサカズは自嘲気味に小さく笑った。「…芸術も資本主義も信仰も、似たようなもんか。」

港区・広尾。
範子の部屋は天井が高く、その高い天井まで続く大きな一枚ガラスの窓の向こうには、東京タワーが温かく微笑んでいた。

「明日から忙しくなるわよ」
「ねえ。なんで僕に声を掛けたの?」
「…なんとなく」
そう言い残すと、範子はマンションから出て行き、マサカズ一人が残された。そこには貧しさも、汗の匂いも、インスタントラーメンもなかった。代わりにあったのは、ルームサービスとシャボンの香り。

いつしかマサカズは、その香りを“自分の匂い”と取り違えるまでになっていた。
範子のコネクションで、名のあるライブハウスにも出られるようになった。名刺を差し出され、酒を注がれ、拍手を受ける。誰かが言った。「君、うまいね」と。──その言葉を信じた。いや、信じたかった。

ギターが好きだった。唄が好きだった。
けれど、いつからか誰かの「うまいね」という言葉にしがみついていた。その言葉が範子の“仕込み”だったとしても、そんなことはどうでもよかった。注目され、称賛され、会場が埋まっていく。リョウコと見た未来よりも、ずっと派手で賑やかな世界。

しかし
夜景は眩しければ眩しいほど、闇は深い。
誰にも気付かれたくない虚構ほど鮮やかに光り、
暗がりに落ちた影は、自分でも拾えなくなるのだった。

《つづく》