「何をやっても目立たなきゃ意味がない。」
そんな言葉を最初に口にしたのは阿部だった。そして、実際に無茶をやってのけたのは、“McKINLEY”と名乗り始めたばかりの2人だった。
深夜0時から翌日の深夜0時まで、ラジオの電波をジャックしたこともあった。番組名は「McKINLEYを寝かせるな!」。インディーズバンドであった2人の、こんな無茶な企画のスポンサーを見つけてきたのも阿部の手腕によるものだ。3人で、高校のクラブハウスでしていたようなくだらない話を延々と垂れ流し、リスナーからのFAXに涙を流し、即興で歌を唄っては腹を抱えて笑った。深夜3時を過ぎた頃、阿部が急に「リスナーに宿題でも出さないかい?」と言い出した。テーマは「卵と私」。翌朝までには300通を超える“提出課題”が届いた。
またある日は、「トリプル・ブッキング・ライブ」と称し、昼に東京、夕方に名古屋、夜に大阪というライブを同日にブチ込んだ。理由は「やってみたかった」から。舞台上でも楽屋でも、移動中の狭い車の中でも、3人は笑っていた。パンクも、機材トラブルも、忘れ物も、マサカズの迷子も、「またネタが増えた」で済んだ。
「Platform Prisoners」は異例のプロモーション活動だった。「McKINLEY」の名を全国に知らしめるため、電車に乗りながらプロモーション活動を行う。しかし「新曲が完成するまで電車から降りられない」というルール付きだ。東海道線に乗りこみ、ボックス席に3人とギター。発車ベルと同時に歌詞とメロディを練り始める。ギターと小さな録音機材を出して口ずさむ。阿部は呑気にも旅のお供に缶詰とカップ麺を持参したが、お湯も缶切りも忘れてしまった。ギターの弦は切れるわ、機材の電池は切れるわ、途中で車掌に「うるさいので、もう降りてください」とキレられるわで、散々だった。
ようやく曲が出来たところで、コウヤが歌詞を書き始めた。マサカズは阿部が予備のつもりで担いできた、ビデオデッキくらいの大きさの機械で遊んでいる。阿部の故郷、サンタクララの実家で眠っていた、日本ではあまり見かけないC電池駆動の4トラックMTRだ。カセットテープに録音できるらしい。コウヤがペンを走らせている間に、使い慣れないMTRを弄りながらマサカズはこんな唄を録音した。
東京駅からおよそ6時間、三河塩津駅。ようやく曲が仕上がったのは、蒲郡競艇場からの風が吹き抜ける夕方のことだった。人気のない駅に降り立ったものの、自販機すらなく、空腹のまま上りの電車に飛び乗った。帰りは阿部のいびきが静かな車内にこだまし、つられて笑った老夫婦と目が合った。コウヤは少し照れながら「..I’m McKINLEY.」と笑って返した。この一言が、この旅唯一のプロモーションらしいプロモーションであった。
そうやって、笑ってばかりいた。何をしていても一緒だったし、何をしても楽しかった。
機材の調整を一手に引き受けるロードクルー、ステージを一緒に作ってくれた照明チーム、ラジオ局のアシスタント、MVを撮ってくれた自主映画上がりの監督、酔うとすぐ泣くPA、「いつか一緒にやらせてほしい」と名乗り出た花火師、「まい泉」のカツサンドしか発注しないケータリング担当、いつも彼女を隣に乗せてくる車両担当。気づけばいつの間にか、いろんな仲間が3人の周りに集まっていた。
ある日。
ライブ終わりの打ち上げで、コンポーザーの辻がビールを煽りながら、ふと呟いた。
「お前らと仲間でいられるのは名誉なことだよ、ホント。でもな、お前らと同類と思われるのは甚だ迷惑な話だ。「名誉」の「メイ」は、「迷惑」の「迷」だよ、ホント。」
皆、酔っていたこともあり、その場が沸いた。だが、その言葉は不思議と皆の心に残った。
「迷誉」。そのうち誰かが、そこに名前をつけた。——誉三兄弟——誉れ高き、三者三様に自由奔放、故に周囲も手に余る三人衆。皮肉と愛情が綺麗に混ざり合った、妙に座りのいいあだ名だった。
3人は「誉三兄弟」と呼ばれることをむしろ気に入っていた。「誉」など、本来は他人から尊敬の念を込めて贈られる言葉だ。でも3人は、自ら名乗り、背負い、笑っていた。
そして、こんな日がいつまでも続くと思っていた。

