episode 0;砂上の塔

ある夜、マサカズはリビングと呼ぶには広すぎる部屋で一人、ギターを弾いていた。
遠くにはレインボーブリッジが光り、ネオンが川面に揺れている。高速道路には赤いテールランプが並ぶ。
爪弾くコードに、どこか違和感があった。
指は動くのに、音が死んでいた。
──“本物”じゃない。

どこか借り物のような、からっぽな音。
マサカズはこの現実が、急に不安定な夢のように感じられた。
視界がぐにゃり、と歪んだ。

リョウコといた頃、小さな安アパートで歌ったこの曲
掃除や洗濯の合間に、時には朝早くから夜遅くまで、バス通りに面した窓に腰掛け、笑い合いながら歌っていたものだった。地味で、不器用で、でも──“本物”だった。

だが、一度手放したものはもう取り戻せない。
マサカズはギターをソファに投げつけ、窓の外を見つめた。

「ここが…夢の舞台だ!」
「これは成功なんだ…!」
呪文のように何度も自分に言い聞かせた。実力じゃない?そんなことは分かっていた。しかし今やどうだっていい。なぜならマサカズは、本物の世界へ続く扉を自ら閉ざし、その鍵すら投げ捨てたのだから。

もしあの時、リョウコが泣いてくれたら。もしあの時、引き留めてくれたら、僕は今ここにいなかった。
でもリョウコは泣かなかった。だから真っ直ぐにこの部屋に向かった。
マサカズは全ては自分の我儘のせいだと知りつつ、今は誰かのせいにしたかった。

マンションのエントランスの自動ドアが静かに開く。
ビルの合間を抜けた夜風が、震えるマサカズの頬をなぞる。ここは栄光を飾る象牙の塔ではなかった。今となっては、自分を封じ込めるための檻でしかない。マサカズはゆっくりとポケットに手を突っ込み、夜の街へと歩き出した。足取りはふらつき、汗が止まらない。目を開けているのが精一杯だ。何もかもが、自分の中から抜け落ちてしまったような感覚だ。

──僕は今、何を持ってる?

どこにも手応えがなかった。どこにも。
マサカズの前には、虚ろな成功の幻と、下心のある称賛と、誰のものか分からない夢が散乱していた。どれを拾い集めても、自分の心は埋まらなかった。

音楽は、鏡だ。
音が死んでいるということは、自分の中に生きているものがない、ということだ。
「僕は…自由になりたかっただけだったんだ」
そう呟いて、マサカズは力無く笑った。でも、全てが遅過ぎた。

街は、まだ煌びやかだった。けれどマサカズの心に、光は届かなかった。
自分の影に踏みにじられたたまま、彼は歩き続けた。歩き続けるしかなかった。

そして、コウヤと出会うことになる、あの店へと辿り着いた。