episode 0;航路

夜明け前の港は、世界から切り離されたような静けさだった。
まだ陽の昇らぬ空は薄墨色で、雲は低く重く、海面には小さな波がぬるく這っていた。

海と空の色の境界線が次第に鮮明になる頃、そこに、ひとりの少年がいた。
ワークパンツにサスペンダー、深く被ったハンチングの下から、太陽に焦がされたような茶色い瞳が、誰にも消せない炎を灯していた。彼の名はコウヤ。17歳。

背中にはTシャツやシュラフが詰め込まれたリュック。ポケットには祖父の形見のブルースハープ。家族の写真も、卒業証書も、得意の三佐銛も置いてきた。

「工場さんくぅとぅゃしむさー、やーしがあしばーさんけー。歌やみてぃ、まっとーば生きれぇ!」
実家の古びた整備工場内に響き渡る声で、親父が放ったその言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。工具の音、油の匂い、そして張り詰めた空気。
それら全部が、コウヤにとっては墓場のように思えた。

波止場に停泊していたのは、那覇から本州へ物資を運ぶ古びた貨物船。
錆びの浮いた船体は、まるで時代に取り残された怪物のようだ。

コウヤは荷下ろしの隙を見て、コンテナの隙間に身を滑り込ませた。

朝7時ちょうどに船が動き出すと同時に、コウヤの腹の底がぞわりと震えた。
それは後悔ではなく、彼の希望が脈を打ち始めた証拠だった。

日差しを避けるようにコンテナに潜り込んだものの、中は狭くて蒸し暑かった。
空気はこもり、汗は止まらず、吐く息すら重たい。
それでもコウヤは、時折ポケットからブルースハープを取り出しては、小さく音を鳴らした。誰に聞かせるわけでもない、音のない世界に自分を刻みつけるための「ささやかな存在の証明」だった。

数日後、大阪の港に到着した。南港南地区のFバースは水深があり、古いタンカーでも操船しやすい。夜の帳に紛れながら、コンテナの陰から抜け出す。

靴の裏に伝わるアスファルトの感触が、沖縄とはまるで違った。滑らかな感触で、色も濃い。コウヤは「これが“外の世界”か」と実感した。

先はまだ長い。今度は貨物列車に忍び込んで東京を目指した。
「待ってろよ、東京。…おいらの歌は世界を鳴らすんだ」

貨車の床は冷たく、鉄の匂いが鼻に残る。錆びた連結部が軋むたび、身体が跳ねた。それでも、コウヤの目は輝いていた。見渡す限りのススキ野原、満天の星、地平線の果てまで続く鉄路。途中雨に降られ、靴もズボンも泥まみれになった。金は底をつき、腹も減った。
それでも彼は降りなかった。貨物列車はいくつもの夜を突っ切り、都会の明かりへと少しずつ近付いていった。
そして──。

薄明かりに染まり始めた空の下、鉄の塊が速度を落としはじめた。
コウヤは立ち上がり、荷物を背負い直すと、コンテナのドアを開放して景色を見た。

幾重にも重なりあう高速道路。立ち上る工場の煙突。その向こうに見えるビル群。
「──東京だ」

実際は神奈川県の鶴見区だったが、コウヤ少年にはまだ難しかった。

身体が勝手に震えた。寒さなんかじゃない。これは、覚悟だ。

貨車が止まり切る前に、彼はレールに身を任せる草原に向かって飛び降りた。着地の瞬間、全身に電流が走ったような衝撃を受けたが、彼は立ち上がった。

初めて踏みしめる東京、いや、鶴見の土。
──この下に、何百万人もの夢と敗北が埋まっている。おいらはその全てを超えていく。

深呼吸をし、ポケットからブルースハープを取り出した。
ひと吹き。都会の朝に溶けるような、儚く乾いた音が鳴る。

砂利道に、右足のつま先で真っ直ぐな線を引く。
「ここがスタートラインだ」

その唇に浮かんだのは、笑顔ではなかった。
未来を睨みつけるその眼差しには、確かな火が灯っていた。

世界を鳴らすシンガーになる──。
コウヤの瞼の裏には、この曲で世界を席巻する姿が、確かに見えていた。