スタジオにて

「…遅いな。」
マサカズが苛々しながらスタジオのアーロンチェアの周りをぐるぐると回り続けている。コウヤはスタジオの隅にぶら下がっているサンドバッグを叩き続けていた。

ようやくコウヤの悪夢のような闘病の日々が過ぎ去り、新たな一歩を踏み出そうとした初日。現われる筈の A がやって来ない。

何処から聞きつけてきたのか、スタジオの窓の外には胡散臭い新聞記者が潜んでいるのが見てとれた。Mont Blancの誕生までの経緯には多くのメディアで様々な報道がなされていた。

『「A」と名乗る日本人女性、 McKINLEY と接触!』
『新生 McK 、苦肉の策の新ボーカル』
『新メンバーはビリー・リー・ライリーの孫か?』

先日発表になった「A」のMcKINLEYとの新・ユニットについては、音楽雑誌もワイドショーも、総じて否定的な意見を述べていた。コウヤの実績・実力からして、普通に考えれば新メンバー加入は有り得ないというのが音楽ライターやコメンテーターの統一見解だった。ある雑誌ははっきりと、「A」の加入は、元・米軍であり、KINGTACOSのボーカリストであるエリックのゴリ押しによって実現したという、きな臭い推測記事も目にした。

どちらにせよ、世間は少女「A」への注目を辞めることはなかった。

一方コウヤは、退院こそしたものの完全復帰にはまだ程遠く、時折気晴らしに歌ってみても、このように自信を失うことが多かった。

待ちくたびれたマサカズが、スタジオに設えたポルトローナ・フラウのソファで横になろうとした時、スタジオのドアの隙間から「クライ・ミー・ア・リヴァー」の鼻歌が聞こえた。

ドアが開くと、そこにはAの姿があった。

少女のような顔立ちではあるが、まるで浮浪者のような出で立ちだ。しかし、どこか情緒的な深みを感じるその佇まい、貫禄溢れる立ち居振る舞い。彼女が一歩スタジオに足を踏み入れると同時に、安い酒の匂いも大きなスタジオに漂い始めた。まるで、つい先ほどまで飲み歩いていたようだ。

「さ、やろうか!」
彼女は左手に持っていたスキットルを尻のポケットに押し込んだ。

「…お、おい!こんなに待たせておいて!」
初対面にも拘らず、Aに声を荒げたマサカズ。しかし、彼女の答えはこうだ。

「歌は歌いたいときに歌うの。何か悪い?」
そう言うとAは手慣れた様子でヘッドホンを首にかけ、モニタ・スピーカーの電源を確認し、その上に腰掛けた。コウヤはそんな彼女を笑顔で眺めている。声は出ないが「相変わらずだな」とでも云わんばかりの笑顔だ。

マサカズは憮然とした表情でギターを抱えると、改めてチューニングを確認した。コウヤはマラカスの持ち手に松脂を少しだけ塗ると、体と楽器が一つになるよう、しっかりと握りこんだ。

Aは、コウヤとの再会と共にマサカズとの対面を果たし、今ここにMont Blancが誕生した。

瞳を閉じる。
空気が張り詰める静寂の中、暫くそれぞれの息遣いを感じ合う。
鼓動が重なる。

…今だ。

一瞬の静寂の後、彼女はこの唄を歌った。