「A」と名乗るその少女との出逢いは、コウヤがソロとして活動していた時のことだった。
ロンドンを拠点に歌っていた時のこと。
パリでダンサーを目指す一人の少女が、ヴァカンスを利用してロンドンのセント・パンクラスを経由し、ウォータールー駅に降り立った。鬱蒼とした駅舎を出てロイヤル・フェスティバル・ホールへ向かうその少女が、線路脇で歌うひとりのストリートミュージシャンの前で足を止めた。いや、止めたのではなく、止まってしまった、という表現が正しい。
そのミュージシャンは、コウヤ。
コウヤはこの唄を一頻り歌うと、いつまでもその場を離れようとしない少女にたどたどしく声をかけた。
「えっと…Can you speak Japanese?」
彼女の、にっこりとした微笑に応えるように、彼はこう続けた。
「ストリートで歌うのは…やっぱり気持ちがいいもんだよなぁ。おいら、どこででも歌うよ。君も”今”と一緒に生きてごらんよ、きっと自然と歌いだすよ。」
コウヤの屈託のない笑いに、その少女は微笑んだ。
それから2人はテムズ川にかかる橋を超え、トラファルガー広場の人混みを通り過ぎ、カーナビーストリートまで歩くと、赤いタイルの敷き詰められた壁が特徴的なバーでビールを買い、外のベンチに腰掛けた。
涼しい風が、2人を包み込んだ。
「えっと…、あ!おいらはコウヤ!」
「うん、知ってる」
「あぁ…えっと、なんて呼んだらいいかな?」
この時になって初めて、少女は今日が初対面であることを思い出した。
「…A。Aって呼んで。ね、私にも歌わせてくれる?」
Aはそういうと、コウヤのマラカスを手にその場に立ち上がり、この唄を歌った。
夕暮れ時、街を急ぐサラリーマンが、俯いていた学生が、買い物途中の婦人が、散歩途中の老人が、作業の手を止めた掃除夫が、周りの店の客が、そして向かいの店のバーテンまでも彼女の歌に耳を傾けた。
急に我に返った少女A。周りの客の視線に気付き、急に恥ずかしくなったのか、その場でうずくまった。彼女の後ろからひそひそと声が聞こえた。どうやら変な観光客と思われてしまったようだ。
「…もういいかな?」
周囲の視線から解放されたのを確認するようにちらりと周囲を見渡す。その可愛らしい姿にコウヤは声を上げて笑った。
「小学校以来だな!こんなに笑ったのは!」
するとAはわざと少し膨れた顔をしてみせ、こう言った。
「だって、コウヤ、『どこでも自然と歌いだしちゃう』って言ったじゃない!…でも、なんだかとっても幸せな気分!ねぇ、コウヤは幸せ?」
「そうだね。おいらは幸せだよ!だって、今を一緒に生きているからね。」
コウヤが語る言葉に、Aも大きくうなずいた。
そして道端の大きなゴミ箱の上に立ち上がると、パイナップルをしゃぶりながら、夜が明けるまで2人で歌い、踊り続けた。
Aと出逢ったのは、たったこの1日だけ。
それからは会ったこともないし、手紙すら出さなかった。その彼女からの突然の手紙、そして彼女からのオファー。
――この手紙はMcKINLEY、そしておいらへの単なる応援メッセージではない。彼女自身が「もう1人のMcKINLEY」になること、に違いない。声の出ないおいらに代わり、Aが歌い、踊る――
コウヤはそのことを少しも否定しなかったし、むしろ喜んでさえいた。
「おいらの心を歌声で表現できるのは、彼女しかいない。」と。
青梅雨の緑が眩しい森を見下ろせる病院の屋上で、たった1行の手紙を何度も読み返すコウヤ。
「フランスからやってきた小さな悪魔…か。そうだ、バンド名は『Mont Blanc(モンブラン)』にしよう…」


