リョウコとマサカズは14年前まで、結婚の約束をしていた。
しかしある社長令嬢に見初められたマサカズは、あっさりとリョウコを捨てると、令嬢のもとへと行ってしまった。しかし令嬢はわがままな女だった。金回りは良く、仕事は面白くなってきていたものの、マサカズには我慢の限界だった。
そうして1年で、あっさりと破局を迎えた後は、まるでゴミ屑のような、この社会に何の価値もないに等しい孤独な存在と化したマサカズ。しかし、ある日を境に「コウヤ」という無二のパートナーができ、その後の人気は皆の知るところである。
この唄を皮切りに、次々と世界に向けてスマッシュヒットを飛ばしてきたMcKINLEY。しかし今日、再開したリョウコにマサカズが何気なく話した別れてからの経緯は、リョウコにとって許せないものだった。自分を捨て、マサカズを奪った女までも捨て、コウヤを選んだマサカズ。そしてMcKINLEYは今や、マサカズにとってそんな過去を忘れてしまうほどの成功者になっていた。
リョウコは、14年前のことなど、とうの昔に忘れた、と思っていた。彼がターゲットである事を伝えられた時も、単に「いつも通りの仕事」という感情だった。ターゲットに出会って部屋に行き、殺して去る。時に相手と寝ることだって厭わない。ターゲットの移動経路や交通手段、ホテルの部屋や趣味嗜好まで全て調べ上げ、脱出方法もいつも通り完璧なものだった。そしてその通りにやるつもりだった。
しかし、空港でマサカズを見た途端、「本来の仕事」とは別の感情が沸き上がっていることに気付いていた。
リョウコはボートの上から無言で黒い海を眺めた。
何もかも塗りつぶしてしまうような黒。
リョウコは思った。
――私は、深い闇の中に居る。そして、もう二度とここからは抜けられない――
「うーん、なかなかいい店だねぇ」
「そうでしょ?」
店内に入ってきたのはユキと連れの男。2人はなんだかいい感じだった。コウヤは、今日の苦労は一体なんだったんだろうか、という、急に冷めた気持ちになった。
「あ、傘ありがとう。あと…あの件も」
そう言うと、ユキはバツの悪そうな表情で、コウヤにオレンジの兎柄の傘を返してきた。どうやらユキにとってデュークとの久々のコンフロントは、貸した傘と並べられるほどの出来事のようだ。
「ユキがお世話になっているようで…」
事情を知らないその男は、コウヤに頭を軽く下げた。
「あ、いえ…こちらこそ贔屓にしていただいてます」
コウヤは通り一遍な、当たり障りのない対応に努めた。男は一応メニューに目を通したが、すぐに
「じゃあギブソンを2つ貰おうか」
と男は言った。
ギブソン。こういう訳だったのか。コウヤはその男を「ギブソン」と呼ぼう、と決めた。
でもなぜ雨の日に?
コウヤは動揺を悟られまいと、いつも通りシェイカーを振ろうとした。でも身体が痛んでそうはいかなかった。なんとか2つのギブソンを作り上げると、渾身の作を2人の前に差し出した。
「私たちが出逢ったのも、こんな雨の日だったわね」
「ああ、じとじとと雨の降る、嫌な日だった…」
「でもギブソンを飲むとそんな嫌な事も忘れられるの。あなたの好きなカクテルだし、初めて逢った日に飲んだのだから」
ユキは長身でほっそりとした容姿で、側面から見るとS字形のカーブ・ラインとなる豊かなシェイプで、言われてみればアメリカの理想の女性像”ギブソン・ガール”そのものであった。ふとコウヤは、「ギブソン・ガールは、このカクテルの生みの親でもあるイラストレーター、チャールズ・ダナ・ギブソンの作品」ということを思い起こした。
2人はギブソンを間をあけて2杯飲み干すと、あっという間に帰って行った。
窓の外を2つの傘が寄り添うように去って行った。
外は雨。
コウヤの心の中にも雨が降っていた。その雨が心の傷に染み込んだ。昼間の傷の痛みのことなどすっかり忘れてしまう程、2つのグラスの中のパールオニオンの白さが痛かった。
「マサカズ…」
カウンターから見える夜空に向かって思わずどこにいるのかも分からないマサカズの名を呟くコウヤ。コウヤは一人、静かなBGMを朝まで聴きいったのであった。
マサカズのピンクのスーツの左胸のポケットチーフは、まるで小さな薔薇をあしらったように赤く染まっていた。弾丸が貫通し、黒く焦げた胸ポケット。
そして。
スーツの下では、ロシアカメラが粉々になっていた。リョウコの忘れ形見、いや、優しさが、図らずもマサカズの命を奇跡的に救った。小さな弾頭は薄い胸板に突き刺さってはいたが、なに、オロナインでも塗っておけばそのうち治るだろう。
マサカズは、備え付けのデスクに置かれているペーパーナイフを使って弾丸を穿り出すと、ホテルの受話器をとった。
「いや、なんでもない。…あぁ。花瓶を落としただけだ。そう。予定を変更して明日の朝発つことにしたよ。」
なんて一日だ。
「コウヤ…」
一瞬コウヤの満面の笑みが頭に浮かんだが、マサカズはそのまま泥のように眠りについた。


