カナディアン・クラブの夜

雨がしとしとと降り続く新宿の裏路地。
ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、街全体がぼんやりとした輝きを放っていた。

この日のアクターであるコウヤが、古びたジャズバーの扉を押し開けた。
店内には、ウイスキーとタバコの混じった濃厚な香りが漂っている。
古い木製の床はわずかに軋み、空気には長年染み付いた音楽と夜の記憶が渦巻いていた。

元はジャズバーとして名高かったこの店だが、人の音楽の好みなど気まぐれで、かつてはジャズに酔いしれていた人々も、今では異なる音に身を委ねている。
この店も時代の流れに逆らえず、今夜は“ブルース・ナイト”、そして明日は“プログレッシブ・ナイト”だ。夜毎サックスの泣き声が聞こえなくなった代わりに、ステージでは様々な音が踊る。明日にはピンク・フロイドよろしく、倦怠的で幻想的なサウンドがこの店全体を包み込むことだろう。

「音楽」が絶えない限り、店は生き続けている。

カウンターの奥では、バーテンダーのロンが無言でグラスを磨いていた。
黒のカマーベストに白いシャツ、腕には控えめなガーターバンド。シャツの袖口はきっちりとアイロンがかかっており、革靴は漆のように黒く光る。丁寧に切り揃えた口髭をたたえた口元に細身の葉巻をくわえ、煙は静かに立ち上って天井へ消えていく。

ロンは何も語らず、だが全てを知っている男の所作だった。

「ジャック・ダニエルをロックで」
とステージに上がる前にコウヤが注文すると、ロンは頷き、琥珀色の液体をグラスに注いだ。

氷が静かに音を立てる。

ステージでは、既にマサカズがブルースを奏でていた。
細身のブラックジーンズに、くたびれたミリタリージャケット。
Tシャツにはかつてのツアーのロゴが擦れたまま残っている。
足元はドクターマーチンの8ホールブーツ、紐は左右非対称。
肩から下がるYamakiのアコースティックギターのネックを握る指は節くれ立ち、時の流れを表しているようだった。ストローク一つでエゾ松の単板から重厚な音が響き渡った。

コウヤがグラスを握りしめたまま舞台に上がると、客席から拍手が沸き、思わず立ち上がる人さえいた。
ゆっくりマサカズの隣まで歩み寄り、コウヤはこの唄を歌い始めた。
スウェット地のパーカーの上にダメージデニムジャケット。
色落ちしたカーキのパンツには、ライヴ中に引っかけた破れがある。
足元は履き古したスリッポン。無頓着な身なりなのに、なぜかステージでは様になる。

声は低く、そして力強い。泥の中から這い出た魂が叫ぶような、そんな歌だった。

曲が終わると、マサカズは遅れてきたコウヤを見てあきれたように微笑んだ。
ギターをケースにしまい、今度はマサカズがカウンターに歩み寄った。

「久しぶり、ロン」
マサカズは言い、バーテンダーの前に座った。

ロンが無言でグラスを差し出すと、マサカズはそれを受け取り、氷を回しながら一口飲んだ。
「危うく1人でステージを終えるところだった。胃に穴が開きそうだったよ」
ふっと息をつく。

「…忙しいのか?」
ロンが言葉少なに尋ねると、マサカズは肩をすくめた。

「まあね。でも、音楽だけは手放せないね。」
ギターケースを軽く叩き、マサカズは少し笑った。

その時、コウヤがステージから降りてきた。
タオルで汗を拭い、オーディエンスに応えながら歩み寄ってくる。

「遅れて済まなかった!」
と言いながら、テーブルについたコウヤにマサカズは、かわらず
「お疲れ、コウヤ。」と言葉をかけた。

ロンがコウヤにもグラスを差し出した。カナディアン・クラブ・クラシックの12年。ステージの後、2人がこの店で愉しむのは、いつもこのウイスキーだった。

通常の2倍もの熟成期間を経たこのウイスキーを愛するのは、『人生は人間に大いなる苦労なしには、何も与えぬ』というホラティウスの言葉をこよなく愛するコウヤの人生観にも通じる。酒樽の焦げた匂いの中に、バニラのような甘さやりんごのようなフルーティな香りを感じる複雑な味わいは、McKINLEYの歩みそのものとも言える。

コウヤは照れくさそうに笑い、グラスに口をつける。
「ありがとう。でも、最近、手の痺れが気になってさ。」

「痺れ…何だ?」
マサカズが眉をひそめた。「医者には行ったのか?」
コウヤは首を振る。「まだだよ。でも、近いうちに行こうと思ってる。」

ロンが新しいボトルを棚から取り出し、静かにグラスに注ぐと自身の前に置いた。
「…無理はするな」
彼は言った。

再び照明が少し落とされ、ステージでは新しいバンドがセッティングを始めていた。
テレキャスターがチューニングされ、ベースの弦が唸る。

「ところでロン。お前は最近どうなんだ?」
コウヤが尋ねる。

ロンはふと視線を落とし、コウヤのグラスの氷を眺めながら答えた。
「…時々、眩しい光を感じる瞬間がある」

「光を感じる?」
今度はコウヤが眉をひそめると、ロンはこう続けた。
「…お前たちのステージを観ている時にな」
ロンのジョークにマサカズは静かに笑い、コウヤもそれに続いた。

「それじゃあ、再会と、この夜に――」
3人はグラスを掲げた。バーボンの香りと、タバコの煙と、雨音。

永遠に続いてほしいほど完璧な夜だった。