空白の時(其の1)

空白の時。
これは、コウヤとマサカズが消息を絶った間の記録である。

コウヤがBar「polepole」のバーテンダーを始めたのは、2013年の夏の終わりだった。

コウヤがMcKINLEYの活動にもう一度目を向けられるようになるまでは、という条件で、オーナーでありギタリストの玄太郎に頼まれたのだった。

定休日の日曜以外は、明け方5時までオープンしていた。店はあまり流行ってるとはいえない。オーナーが半分道楽でやってるのだから、それでも良いのだ。何よりも、好きな音楽に囲まれ、常連の客たちと喋りながら過ごす時間がコウヤには楽しい時間だった。客も、コウヤと共に過ごすひとときを楽しみに通ってきていた。

ユキもそんな常連の一人だった。

ユキは年はコウヤより2つほど下かと思う。頬にかかる計算された長さに整えられた横髪は、艶やかな黒で、彼女の肌の白さを際立たせている。大きく潤みがちな唇は、どんな男もぐっときてしまうだろう。化粧は控えめだが、クリスマス柄のちょっと派手目の靴下や、常に引き回しているトランクを見れば、彼女が大道芸人をしてるのはすぐにわかる。

オーダーを受けて、二言三言挨拶のような会話を交わすだけの関係だったが、彼女にひそかに想いを寄せていたコウヤは、一度冗談めかして
「ワンネーガ ミーのフニーン ニーヌラン?(おいらの船に乗らないか?)」
と誘ったが
「若くて可愛いコならそこらにいっぱいいるわ。そのコ達に声かけたら?」
と言われてしまった。

ユキはいつもは開店直後にやってきて一杯だけ飲んでいく。芸を行う前の気付け薬のつもりで飲みに来るのだと前に言っていた。いつもはカシス・オレンジとかの軽いカクテルを飲むのだが、雨の晩にやってきた時はなぜかギブソンをオーダーする。

ギブソンはマティーニのバリエーションだが、一番の違いはデコレーションだ。マティーニはオリーブ、ギブソンはパールオニオン。ギブソンはこの店のメニューには載っていない。パールオニオンは置いていなかったが、今はユキのためにアパートメントの屋上で自家製栽培し、店に置いているのだった。

その日は店を開けるちょっと前から雨が降り始めた。コートなしでは寒いくらいの、しとしと降る冬の雨は冷たい。こんな雨の日に飲みに行こうと思う人はきっと少ないだろう。

コウヤは、そろそろユキが来るんじゃないかと思いながら、いつも以上に丁寧にグラスを磨いていたが、予想に反して彼女は現れなかった。店にはこの唄と、グラスを磨く音、そしてグラスラックに仕舞う音だけが響いていた。

窓から見える夜の街を濡らす雨。それを時々眺めながらグラス磨きをしているうちに2時になった。さすがにグラスもこれ以上磨いてるわけにもいかないので、お気に入りの泡盛、国華を一瓶開け、最後の1杯をちびりちびりやりながら、かつて使っていた古い携帯電話の取扱説明書を読んで時間をつぶした。

壁に掛けられたアンティークの振り子時計を見て、もうそろそろ閉店しようか、と思いながらページをめくっていると、ドアの開く音がした。説明書から目をあげると白のロングコートを羽織ったユキが立っていた。

「ハイサ…っ?」

彼女がひどく濡れているのに気づいて挨拶の言葉を途中で飲み込む。

「…ギブソンをちょうだい」
といつものように彼女はオーダーしてスツールに腰掛けた。彼女の髪から滴がカウンターに落ちた。

「…これでフチケー(拭きなさい)」

そう言って、バックヤードに吊るされていた、かつてのアリーナツアーの黒いTシャツを一度畳み直してから渡した。ユキは一瞥し、黙ってそれを受け取ると、黙って濡れた髪を拭いた。
その間にコウヤは冷蔵庫から取り出したカクテルグラスにスティックに差したパールオニオンを入れ、冷蔵庫からは冷えたジンを、棚からはドライベルモットを取り、カウンターに並べた。シェイカーを氷で満たし、ジンとドライベルモットを手早く注ぎ込む。ユキはシェイクしたのを、と言うので、いつもこうしている。

無言で視線をカウンターの隅から隅へ這わせているユキの前にグラスを置き、シェイカーからギブソンを注ぐ。だが、ユキはすぐにはグラスに口をつけなかった。

「どうした?」
「…どうしよう…」

そう言ってユキはカウンターから目を離すと、コウヤを見つめ、細い指で濡れた髪をかき上げた。
「なにがあったか知らないけど…おいらに話してみなよ。力になりたいんだ」

レコード針は、盤の終わりで柔らかなノイズを奏で続けていた。

ちょうどその頃。
マサカズはニース空港に辿り着こうとしていた。

《つづく》