コウヤは、静かな店内でユキの話を聞いていた。
ユキの話はこうだった。
妹が交通事故を起こした。
事故自体は軽い接触だけで大した事なかった。が、相手が悪かった。
“ハマのノスフェラトゥ(吸血鬼)”と呼ばれている横浜で名を馳せていた男、デューク。彼の愛車、メルセデス・マイバッハにぶつけてしまったのだ。しかし、巷ではデュークは随分前に国外へと渡ったと言われていた。
「だって、奴は…」
「帰ってきたのよ。昨日。」
デュークはれっきとした日本人だが、ニューヨークに進出し、一夜にしてギャングスターに成り上がった。若くしてハーレムにあるアポロシアターやコットン・クラブをも手に入れた大規模組織犯罪集団のボスであり、強欲且つ冷酷非道な男と呼ばれている。
「…おいらがなんとかするさ。」
「え?」
「”任せておけ”って言ってんだ。」
ユキは少し間を置いてから
「…ありがとう。」
と言った。そしてギブソンをさっと空けると席を立った。
コウヤは急いでカウンターから出て彼女を呼び止めた。
「この傘を使いなよ。」
そう言って、オレンジの兎柄の傘を渡した。
「…ありがとう。」
同じ口調でもう一度礼を言ってから彼女は、顔をコウヤに近づけて左耳にキスした。ユキは
「それじゃあ、また。」
と言って店を出ていった。
再び店内は静かになり、この唄だけが流れていた。
翌日。
雨は上がっていたが曇天であった。鉛色の空の色は、廃れた工場の隙間にネオンの光が広がる、錆びた匂いのするこの街によく似合う。
デュークの事務所は雑居ビルの3階にあった。
事務所のドアの摺りガラスには海老フライを模した金のエンブレムが掲げられている。
コウヤはノブに手をかけようとしたが、心臓の鼓動が高鳴るのを感じて躊躇し、少ししてからまた手を近づける。そんなことを20分ほど繰り返していた。すると
「…なんか用か、兄ちゃん。」
と背後から野太い声がした。
振り向くと額から頬にかけて大きな傷のある四角い顔の大男がコウヤをにらんでいた。
…違う。デュークじゃない。
「昨日の事故の示談に来た。デュークに会いたい。」
「兄ちゃん弁護士か?そんな風には見えないが…」
そう言って大男は低い声で笑った。
「ん?どこかで見た顔だな…まぁいい、入れ。」
そう言ってその大男はコウヤを事務所の中に押し込んだ。コウヤは大男から顔を背けるようにして事務所の中へと進んでいった。
事務所に入り、黒光りする大きなソファの中央になれた様子で腰を下ろしたコウヤは、大男にゆっくりと用件を切り出した。
「…とまぁ、示談金は百万という話だったようだが、こっちの修理代を相殺して…」
コウヤはそこまで言うのも束の間、腰掛けていたソファの後方に飛ばされ、派手な音を立てて豪奢な棚にぶつかった。その衝撃で棚の上の花瓶が頭の上に落ち、中の水を頭から被った。口の中に、じんわりと血の味が広がった。
「兄ちゃん、冗談も休み休み言えよ!こっちはマイバッハだぞ?そっちはジムニー!しかも!中古の!」
「…ジ…ジムニーでも、中古でも…買ったばかりの車らしいんだ…」
クククと低い声で大男はまた笑った。
「兄ちゃん…。…”いつ買ったか”なんぞ関係ねぇだろう。」
コウヤは、大男の言う事に何も反論できなかった。
「…それなら…今日のことを傷害罪で訴えるぞ?」
「…何言ってるんだ?そりゃあ…お前が勝手に転んだんだよ?なんなら階段から落ちたって事にしてやろうか?そうすりゃもっと、な…」
大男はゆっくりと話すと、今度は声を立てずに笑った。
その大男の姿にコウヤのリミッターが外れた。コウヤは手が付けられないほど暴れた。昔から暴走したコウヤは歯止めが利かない。気がつくと大男は床に倒れていた。大男の口と両鼻の穴から血が流れていた。コウヤの両拳が赤く染まっているのに気付き、コウヤは我に返った。
「この野郎…ふざけやがって…!」
そう叫んで、勢いよく立ち上がった大男の姿が見えた。
が、同時にコウヤの後頭部に強い衝撃が走り、コウヤの視界は暗転した。
「…あ…う…」
今度はコウヤが床へと倒れる番だった。
《つづく》


