空白の時(其の4)

「君は変わった。―すごくいい女になった。」
そう言って、マサカズはリョウコをカメラで撮った。

「…やめてよ。ねえ…それより、まだそんなの持ってるの?」
その重厚な小型カメラは旧ソビエト製のハーフサイズカメラで、昔リョウコがマサカズの部屋に置いていった物だった。捻じ込み式の明るいパンケーキレンズとスクエアのシャッターボタンが特徴的な筐体の背面には、「MADE IN USSR」と彫られている。

「ああ。このレンズの解像度は、現代のフィルムでこそ活きるんだ。」
そう言ってマサカズはカメラを胸ポケットにしまうと、マルガリータの入ったグラスを持ってリョウコの方にやってきて、こう言った。

「まさかあの時と今が、こうやって繋がるとは思ってもいなかった。」
リョウコはグラスを受け取ると苦笑しながら言った。

「あの時、あなたに捨てられて…死のうかと思った。けど、生まれ変わって、あなたを見返してやろうと思ったのよ。」
今度はマサカズが苦笑する番だった。
「…過去のことは忘れて、―今日の再会に乾杯。」
「乾杯。」
二人はグラスをちょっと掲げてから微笑みあった。

「音楽でもかけるかい?ほら、この唄。覚えているだろ?」
マサカズは壁に取り付けられたオーディオのスイッチを入れた。

三杯目のマルガリータのグラスが空になった時、昔話や、積もるようにあった別れてからの話が途切れた。間を持たせるつもりで、何気なくマサカズはリョウコに訊いた。

「小さなバッグひとつ、荷物はたったこれだけか。何を入れてるんだい?」
リョウコはバッグを手元に引き寄せると、頬ずりするようにバッグを抱いて、しかしそんな仕草とは裏腹に、はっきりとした口調でこう言った。
「私の人生を賭けたもの。」
その様子を少し変に思いながら、少し酔ったマサカズは言った。
「”人生を賭けたもの”?」

「これよ。」
リョウコはバッグから掌に収まるほどの小型ピストル、デリンジャーを素早く取り出した。上下2連の中折式シングルアクションの拳銃。華奢な手からはみ出した木製のグリップから繋がるエングレーブに飾り彫りが施されている。マサカズからエングレーブがはっきりと見えるほどの距離にリョウコが立っている。そして、その手の中で鈍く光る拳銃の狙いが、マサカズの心臓に向けられていた。

「…物騒なものはしまってくれ。」

リョウコは冷ややかな目でマサカズを見つめたまま黙っている。

「そんなもの…よく空港で引っかからなかったな。」
「あなたが来る前から、近くのホテルから空港に行ったんだもの。」
「何故?」
「あなたに会うために。」
「…それは分かった。でも、僕に会うのに、その…拳銃はいらないだろう?」
「必需品よ。だってあなたの命をいただくのが私の仕事だから。」
「なんだって…?」

プシュンという音。

マサカズの言葉が途切れる。
銃弾は体に衝突すると、鉛の破片が飛び散った。
ミニ・バーのスツールの足元に膝から崩れ落ち、マサカズは前屈みに倒れた。

「…久しぶりに会ったから、長く話し過ぎたわ。」
そう言うと、リョウコはベッドの上にデリンジャーを投げ捨てた。そして赤いスーツも脱ぎ捨てると、黒いキャット・スーツ姿となった。
窓を開けバルコニーに出る。手すりから身体を乗り出し、その下を覗き込む。

月のない今夜、海面は見えない。ただ闇が広がっているだけ。
リョウコは手すりを乗り越えると、躊躇することなく真っ黒な海面に飛び込んだ。

リョウコは沖に向かってしばらく泳いだ。
赤いブイが浮かんでいる沖まで泳ぐと、それをつかんで休んだ。
しばらくすると黒く塗られたモーターボートが全周灯も点けずにやって来た。

「遅かったな。」
猛禽類のような眼差しの年輩の男が呟くように言った。ステアリングを握りしめた黒革の手袋からは、苛立ちを隠し切れない様子が伝わってくる。遠くに見える岩場から吹き降ろす風が、沖に漂うボートまで届く。

「すみません。」
「ターゲットは。」
「片づけました。」
「よし、上がれ。」

リョウコがボートに乗り込むと男はすぐに発進させた。

リョウコは毛布にくるまりながら、今日の仕事のことを反芻していた。
今日のはあくまで仕事。
復讐なんかじゃない。

復讐なんかじゃない。

《つづく》